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『康永本御伝鈔』

 大谷派が現在所蔵している『御伝鈔』は「康永本」といわれるものです。この「康永本」は「康永二載癸未法印宗昭七十四染筆」という奥書があり、覚如上人晩年の真筆とされているようであります。
 東西分派後、当派に所蔵されることになりますが、秘本として本山の宝蔵に奥深く収納され、本山御正忌以外は拝読されることはなかったたといいます。そのために、一般寺院において『御伝鈔』は町版といわれるものが広まり、拝読されることが多かったようであります。現在は「康永本」が開版され下附されるようになり、また『康永本御伝鈔読法所作法』が出ていますので「康永本」に統一されている様子でありますが、町版と比べてみると辞句に三十数ヶ所の相違があるそうです。

 他に覚如上人自筆とされるものには「高田専修寺本」「西本願寺本」等があり、これらの異本等を「康永本」と比べてみるとかなり辞句に異なる箇所があり、問題となるなるところですが「康永本」を書かれた時、覚如上人は老齢であり写しの誤りであるとか様々な説があるといいます。

・高田専修寺本  (重文)奥書永仁3年(1295)
・西本願寺本    (重文)奥書永仁3年(1295)
・東本願寺康永本 (重文)奥書康永2年(1343)

当派所蔵のものには「康永本」の他に「弘願本(重文)善如上人筆、奥書貞和2年(1346)」がある。

建仁第3の暦春のころ

 『康永本御伝鈔』第2段吉水入室では「建仁第3の暦春のころ、聖人二十九歳」とあります。
 まず、「建仁第3の暦」とは1203年であります。しかし、真宗聖典の年表からみても聖人が29歳というのは建仁1年(1201年)であり、暦年と聖人の年齢がくい違っています。覚如上人自筆初稿本の写と称せられる『西本願寺本』には「建仁第1の暦」となっているそうです。
 『康永本』も覚如上人自ら書かれたものであるのにも関わらずこのような違いがあることは不思議なことでありますが、明らかに誤りであると指摘されていることも事実としてあります。しかし、『康永本』が覚如上人自筆であるということは確かであるようで重要文化財にも指定されているものであります。そう書かれている以上、そのまま読むというのが現状であるようです。

建仁3年辛酉

 『康永本』では問題となる箇所がもう1箇所あります。
 上巻第3段の六角告命に「建仁3年辛酉」とあるのですが、建仁3年は癸亥であり、『西本願寺本』では「建仁3年癸亥」となって年号と干支の関係はこちらの方が正しく記載されていることになります。
 前の上巻第2段では、『西本願寺本』に「建仁第1の暦」とあり、また「聖人二十九歳」と書かれているために建仁1年説が有力なようですが、この段の夢想は建仁1年説・建仁3年説と両方あるようです。いずれにしろ「建仁3年辛酉」というのは矛盾する書き方であり、『康永本』に誤りがあることは否定できません。
 今後、改訂版が出る可能性もあるでしょうが、現在のところはそのような話は聞いたことがなく、『康永本御伝鈔読法所作法』にもそう書かれているように、現在は原文のまま拝読するようになっています。

建仁 元年 2年 3年 4年
西暦 1201年 1202年 1203年 1204年
干支 辛酉 壬戌 癸亥 甲子

 大谷派の声明は蓮如上人以降、他派に比べて大幅な改変がなされていないと聞いています。『弘願本』を善如上人が書かれたように、現在の御門首が新しく書かれて『平成本』 を出されると良いと思うのですが、やはり覚如上人の書かれた『康永本』を大切にするというのが大谷派らしいところなのかなと思います。


藤原房前

 藤原房前(ふじわらのふささき)一般的には「ふささき」と読むそうですが、『康永本御伝鈔読法諸作法』では「ふさざき」と読ませています。どちらが正しいかはともかく、おそらくは口伝的なものがあって両方読み方があるのでしょう。
 能のなかに「海士(あま)」という藤原房前の物語があるそうですが、能では「ふさざき」と読むそうです。
 香川県の地名・駅名でも房前は「ふさざき」と読んでいます。





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