大谷派の声明TOP    日記履歴に戻る



勤行  実際の勤行についての聞き書き等

式間念仏

 式間念仏は、報恩講の日中で登壇がある時、伽陀と式文・嘆徳文の間に用いられる念仏で「しきまねんぶつではありません、しきあいねんぶつと言います」というのが野間先生の口癖でした。低い声で称えるのが普通みたいですが、以前は、声の高い伽陀の後に低い声で称えるために、低く入りすぎて、「止念仏」の下がる音(声)が出なくなることがよくありました。最近ではあまりありませんが、あまり高い声も違和感のある人が多いみたいです。どれくらいの声の高さがよいのかは分かりませんが、「止念仏」の下がった音が、おおよそみんなの声のでる高さに合わせて、逆算した高さがよいのではないでしょうか。

 式間念仏は、調声と助音1句目は「なまだぶ」の「ま」が「オクリ」の節譜になっていて「なーまーあーだーぶー」と称え、それ以降は「なーあーまーあーだーぶー」と称えます。(「な」「ま」はオクリ扱いで。)注意する点は「なま」の後に「ん」の発音が入ってしまうことです。「まーなーんだーぶー」にならないように「ん」の発音がでないようにと野間先生は重ね重ね注意せれていました。
 経後短念仏も同様ですが、「オクリ」が「沈折」になっていたり、止念仏の「引押エ」の場所が違っていたりします。
経後(短念仏)回向

 経後短念仏は式間念仏のところで触れましたが今度は回向の話です。経後回向は「ナマリ回向」と呼ばれ、声明本には「ナ」と標記されています。
 方便のことを「訛り」といいますが、通常は、ある地方特有の言い方や発音等を指す言葉ですが、ここでは音が下がって、その後上がってくることを「ナマリ」というそうです。


 音的には同朋奉讃の回向に似ています。
 中央声明講習では、「施・安」の他に「菩」も訛ると教えていただきましたが、そこの「ゴマ節」を「カロクスグル」と理解するとして、「施・菩・安のア」で沈み、次ぎの「一・提・安のン」で浮いてくるような感じでした。
 また、「安」はそのままですが、「施一」「菩提のボダ」の「ゴマ節」を「下ル」節譜と解釈することもできますが、「菩提のイ」でさらに下がるので、「ナマリ」の概念が崩れるとともに、音のとり方がさらに難しくなってきてしまうことでしょう。どちらにしても扱いの難しい回向であります。
二三又計(ふみまたけい)

 二淘のお勤めに対して言われていることです。
 「初重は二重、二重は三重、三重はまた三重の感覚で勤める」という意を表している言葉です。二淘のお勤めは三淘のお勤めより調子が低くなると思われがちですが、二淘だから三淘より声が低いということではないと言われているそうです。速いお勤めですが、速いというよりは軽いという感じでお勤めをする必要があります。(実際には速いですが・・・)
 式・嘆徳文の後、添え勤めとして「早草(はやそう)」と言われる速い草四句目下を勤めしますが、この「早草」の調子も、お勤めの速度は速いものの声は高くお勤めします。一般的には軽いイコール声が低いというイメージをもっていると思いますが、一概にそうではないようです。

ぴびにあらず

 回向「我説彼尊功徳事」の「彼」は「ぴびにあらず」と言われるように「ぴ」でもない「び」でもないその間の声を出す言い伝えがある、ということです。

「我説彼尊」の節譜は三淘のところにしか載っていません。これは三淘から十二淘まで同じ節譜で勤めるため、三淘以外では暗記するか三淘に載っている節譜を見ることになります。

「息継ぎ」と「切る」扱い

 「息継ぎ」と「切る」ことは、お勤めの声を揃えるためには重要なことがらであります。私の声明本には「息継ぎ」を○、「切る」ところをを△で記しています。「息継ぎ」と「切る」扱いの違いは、息が苦しくなったら息継ぎをする、苦しくないので切るだけにしよう、といったものではありません。
 「息継ぎ」とは読んだ如く、息を継ぐわけですが、息を継いだ結果、次の言葉にうつるまで間ができます。お勤めの格・軽重によりますが、お勤めが軽ければ節譜全体が軽くなりますので間も短く(淘三くらいの格では、ほぼ間はないくらいだと思いますが。)、お勤めが重いものであれば、自然と間も大きくなってくることもあるでしょう。


 また、「切る」といった場合、切るだけで息は継ぎません。基本的には、間はほとんどなく、すぐ次の言葉にうつることになるでしょう。しかし、大人数で外陣のお勤めをする場合、声を揃えるためには、上(かみ)の声を聞いて声をだしますので、場合によっては、切る扱いのところでも間をもつことも必要になってくるしょう。おおよそ、このように理解していれば、一人だけ声が飛び出したり、遅れたりすることは少なくなるように考えています。
 というのも、息継ぎをする時も、切る扱いをする時も両方、間を空けてお勤めをすると、素人くさい、だらだらした、リズム感・躍動感のないお勤めになりやすいので気をつける必要がある、と考えるからです。


 「息継ぎ」とか「切る」というのは、割り合い約束事として使われる場合が多い。それは、それ自体でお勤めの軽重(格)が決定されるからでしょう。例えば淘三の和讃の調声は一息と言われていますが、その場合「切る」ことも「息継ぎ」することもないということで、もし切ったり息継ぎをすれば、その調声は淘五とか淘八の調声に聞こえてしまう可能性があります。淘三の調声を淘三らしい調声にするためにも必要不可欠な約束事であります。
 また、息継ぎをする場合、(これもお勤めの軽重によりますが)言葉の最後を押さえますが、「切る」時には言葉の最後、(基本的には押えるのでしょうが)あまり強く押さえず、まさしく切るだけの扱いをする方が、節譜の軽重のバランス・お勤め全体のバランスがよくなるばかりか、そのような扱いを使い分けることによってお勤めの格まで表現できるものであると考えます。お勤めの軽重を考慮して、節譜の扱いを整えるとよいお勤めになると思います。
















 

大谷派の声明TOP    日記履歴に戻る