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聖人と上人 |
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宗祖親鸞(1173〜1262)は「聖人」、法然房源空(1133〜1212)は「上人」の字を使います。その他、ご歴代ご門首も全て「上人」の字を使います。当派においては宗祖のみ「聖人」の字をあて、読み方は一緒ですが、宗祖以外は「上人」と使い分けています。ここまでは皆さま当然ご承知のことかと思います。(池田勇諦先生がよくこういう言い回しをするので少しマネてみました)
もともと、浄土宗では「上人」の字しか使わないとのことで、浄土宗においては法然も「上人」の字を使うみたいです。
当派以外で「聖人」と使うのは日蓮宗がありますが、日蓮宗では「聖人」と称される僧が複数人います。(開祖日蓮(1222〜1282)は大聖人と呼ぶとのことです。)いずれにしろ、宗派によってその使い方はまちまちのようですが、とにかく聖人とか上人というものは、僧の中でも徳の高い僧・師匠的な存在の僧に用いられる尊称であるようです。
真宗ではなぜ宗祖のみ「聖人」の字をあてているのでしょうか。また、「聖人」という言葉が、いつごろから、どのような人に対して使われるようになったかも定かではありません。
ところが親鸞は、高僧和讃の中、源空和讃において、浄土宗でも使われることのない「源空聖人」と表記してます。これは私の推測ですが、親鸞は法然上人のことを、特に尊敬する、特別な存在としての師匠であるという意味合いを含めて「聖人」という字を使っていたのではないかと思います。
親鸞聖人は自ら「愚禿釈親鸞」と名乗っていたように、まわりの人々(親鸞の子孫や弟子、教えを聞いた人々)が親鸞のことをそう呼んでいったということでしょう。
また、『御伝鈔』(覚如上人著)の中でも法然のことを「聖人」と使っている箇所があります。『御伝鈔』を読んでいると『大師聖人のたまわく』とか『執筆聖人、自名をのせたまふ』、『いにしえ我が本師聖人の御前に』と、どちらが法然で、どちらが親鸞のことなのか分かりづらい面はありますが、覚如上人からみると善信(親鸞)は「聖人」であり、善信房(親鸞)から法然上人をみると、法然は「聖人」であるという構図ができているようです。
ちなみに、一般的に(仏教以外で)は「聖人」は「せいじん」と読みます。儒教やカトリックでも使われる言葉です。
萩原聖人は「はぎわらしょうにん」ではなく、「はぎわらまさと」と読みます。 |
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