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その他編 声明に関係する知識や疑問等 

聖人と上人

 宗祖親鸞(1173〜1262)は「聖人」、法然房源空(1133〜1212)は「上人」の字を使います。その他、ご歴代ご門首も全て「上人」の字を使います。当派においては宗祖のみ「聖人」の字をあて、読み方は一緒ですが、宗祖以外は「上人」と使い分けています。ここまでは皆さま当然ご承知のことかと思います。(池田勇諦先生がよくこういう言い回しをするので少しマネてみました)

 もともと、浄土宗では「上人」の字しか使わないとのことで、浄土宗においては法然も「上人」の字を使うみたいです。
 当派以外で「聖人」と使うのは日蓮宗がありますが、日蓮宗では「聖人」と称される僧が複数人います。(開祖日蓮(1222〜1282)は大聖人と呼ぶとのことです。)いずれにしろ、宗派によってその使い方はまちまちのようですが、とにかく聖人とか上人というものは、僧の中でも徳の高い僧・師匠的な存在の僧に用いられる尊称であるようです。
 真宗ではなぜ宗祖のみ「聖人」の字をあてているのでしょうか。また、「聖人」という言葉が、いつごろから、どのような人に対して使われるようになったかも定かではありません。 
 ところが親鸞は、高僧和讃の中、源空和讃において、浄土宗でも使われることのない「源空聖人」と表記してます。これは私の推測ですが、親鸞は法然上人のことを、特に尊敬する、特別な存在としての師匠であるという意味合いを含めて「聖人」という字を使っていたのではないかと思います。
 親鸞聖人は自ら「愚禿釈親鸞」と名乗っていたように、まわりの人々(親鸞の子孫や弟子、教えを聞いた人々)が親鸞のことをそう呼んでいったということでしょう。

 また、『御伝鈔』(覚如上人著)の中でも法然のことを「聖人」と使っている箇所があります。『御伝鈔』を読んでいると『大師聖人のたまわく』とか『執筆聖人、自名をのせたまふ』、『いにしえ我が本師聖人の御前に』と、どちらが法然で、どちらが親鸞のことなのか分かりづらい面はありますが、覚如上人からみると善信(親鸞)は「聖人」であり、善信房(親鸞)から法然上人をみると、法然は「聖人」であるという構図ができているようです。

 ちなみに、一般的に(仏教以外で)は「聖人」は「せいじん」と読みます。儒教やカトリックでも使われる言葉です。
 萩原聖人は「はぎわらしょうにん」ではなく、「はぎわらまさと」と読みます。 
屋外で使う蝋燭と線香について

 お墓参りする時とか、蝋燭の火が点かなかったり、点いてもすぐ消えてしまうことありませんか?今はいい風防が売ってますが、ない場合は困るものです。買うのがもったいない人は、蝋燭に習字紙など薄い和紙をのりで巻いておくとなかなか消えなくなります。

 線香を点ける時は、線香の上下にとめてある紙をどちらか残し、折れないように少し捻じります。すると線香と線香の間が広がり空気が入るので均等に火が点きやすくなります。そのままでは火が点き過ぎてしまうので、おおよそ火が点いたらねじりを戻し、下に巻いてある紙はそのままで立てるとよいでしょう。


新暦と旧暦

親鸞聖人(承安3年4月1日 〜 弘長2年 11月28日)

 大谷派において親鸞聖人の御命日は11月28日であります。これは旧暦をそのまま現在の暦に当てはめて11月28日ということでしょうか。一般的にもこの日にちが命日とされている様子であります。

 本願寺派(お西さん)では旧暦11月28日を太陽暦というものに改めて数えるので、親鸞聖人の御命日は1月16日となるそうです。

承安3年 4月 1日(太陽暦1173年5月21日)
弘長2年11月28日(太陽暦1262年1月16日)

 現在日本で一般に使われている暦は、現在世界各国でも使われている暦法でグレゴリオ暦というものらしいのですが、それ以前に使用されていたユリウス暦に修正を加えた太陽暦の一種であるということです。

 グレゴリオ暦は1582年に完成し、イタリアやスペインなどで使われるようになり、日本においては1873年(明治6年1月1日)に導入されることになったということです。よって明治6年以前の暦((太陰太陽暦(陰暦)特に天保暦を指す))を旧暦といい、それ以降を新暦((太陽暦(グレゴリオ暦)を指す))といっている、ということです。

 ユリウス暦では1年を365.25日とするので1000年に8日(1年に約11.52分の誤差)の修正が必要なのに対して、グレゴリオ暦では1年を365.2425日とするので誤差が3000年に1日になったといいます。
 またユリウス暦では4年に1回(4で割り切れる年に)挿入するのに対して、グレゴリオ暦では400年に97日閏日を挿入する計算になるらしい。(グレゴリオ暦での閏年は、@西暦年が4で割り切れる年は閏年とする。 A西暦年が4で割り切れる年のうち、100で割り切れる年は閏年としない。 B西暦年が4で割り切れ、100でも割り切れる年のうち、400で割り切れる年は閏年とする。)
 夏季オリンピックは4で割り切れる年に開催されるそうですが、2000年(閏年・シドニーオリンピック)は本来Aの100で割り切れる年なので閏年にはならないはずですがBの100でも割り切れる年のうち、400で割り切れるので閏年になるということらしいです。
 400年に3回は閏年でない年に夏季オリンピックが開催されることになりますが、それが何年なのかは、自分で調べて(もし投稿されていなかったら)「トリビアの泉」にでも投稿してください。

 これを読んでもよく分からないと思いますが、書いている本人がよく分かっていないのであしからず。残念!!
和暦

 暦とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめた体系のことです。太陽暦といった場合でも様々で、お西さんがどの太陽暦に当てはめたかは分かりませんが、5月21日を親鸞聖人の誕生とし、1月16日を没年月日としたかはまた誰かに聞いてみたいと思います。(ちなみに弘長2年11月28日は ユリウス暦1263年1月9日、グレゴリオ暦で1262年1月16日となるそうです)

 和暦の歴史をみると、863年までは大衍暦(たいえんれき、だいえんれき)、それから1683年の貞享暦(じょうきょうれき)に変わるまで宣明暦(せんみょうれき)が使われていたことを考えると、承安3年 4月 1日・弘長2年11月28日という日にちはともに宣明暦による日にちであると考えられます。

 いずれも太陰太陽暦の暦法であるそうですが、元嘉暦 から宣明暦までは中国から伝えられた暦法であり、日本で初めて作られた暦法は貞享暦以降であります。いずれもあまり完成されたものではなく、しばしば改暦されてきた様子が伺えます。

 分かった顔して書いていますが、このことも書いている本人が全然分かっていないのであしからず。切腹!!

旧暦
 元嘉暦 690頃-697   中国から伝えられた暦法
 儀鳳暦 692-  764   中国から伝えられた暦法
 大衍暦 764-  861  中国から伝えられた暦法
 五紀暦 858-  862  中国から伝えられた暦法
 宣明暦 863- 1683  中国から伝えられた暦法

 貞享暦 1684-1755  日本で初めて作られた暦法
 宝暦暦 1756-1798  日本で作られた暦法
 寛政暦 1798-1843  日本で作られた暦法
 天保暦 1844-1872(明治5年)日本で作られた暦法

新暦
 グレゴリオ暦 1873/1/1(明治6年)-現在
元号

 承安3年・弘長2年というのは元号という年の数え方で、現在は言うまでもなく「平成」でありますが「平成」までに250の元号が存在するといいます。中国の年の数え方を元としているようです。
 現在では天皇の皇位継承の際に改めていますが、明治以前は天変地異や火事、疫病など不吉なことが起きる度に改められたといいます。このような数え方は真宗的でないと批判されることがあり、西暦を使うように、と言われることがあります。
 1173年・1262年という年は西暦で数えた年ですが、西暦とはイエス・キリストの生まれた年を元年として数え、キリスト暦とも言われているものであり、そのようなことを考えるとこれはこれで問題があるようです。しかし、世界で最も広く使われている紀年法であり、元号では年数の数え方が難しいこともあってか、西暦で数えることが多くなったように思います。
改悔批判

 改悔批判はいつ頃からどの御代より始められたか定かではないようですが、川島眞量氏は「本願寺作法次第」や「實悟記」から考えるに「蓮師が山科本願寺時代坊主分のお弟子を集めて聖教の讃嘆をされ又同信の門徒と膝を交えて安心の正否を検討されたのに起源するものではないか」と述べられています。

 川島眞量氏の「改悔批判の由来と作法」によると、「元来改悔批判ということは非常に重大な行事として取扱われて居るので従来は「夏のお文」の拝読と同様に本山並に別院に限られた行事でしかも五昼夜以上の法要に限られる」ものとされているそうです。そして「批判者は一般の布教使より選ばれないで特に講師とか嗣講とか所謂講者の中より法主の特命によって人定される」とありますが、この文を書かれたのは昭和30年で、当時、門首が法主と呼ばれていたころの論文であります。
大師号

 親鸞聖人のことを見真(けんしん)大師といいますが、これは明治天皇から贈られた諡号(しごう)とよばれる称号だそうです。
 日本において諡号とは、朝廷が偉大であった貴人・僧侶に死んでから贈られる尊号をいうそうです。(もとは中国で始まったもので、生前の遺徳を評価するための称号であったらしい)
 親鸞聖人が書かれた現世利益和讃には「山家の伝教(でんぎょう)大師は」とありますが、天台宗・最澄のことであり、真言宗の空海(弘法大師)とともに初めて日本で諡号を贈られたのがこの二人だそうです。日本ではまだ25人しかいないらしいのですが、その中には法然上人(源空・円光大師)蓮如上人(慧灯大師)も肩をならべ、親鸞・最澄・空海とともに18大師の中に入るということです。


十八大師

  伝教大師(最澄)・慈覚大師(円仁)・智証大師(円珍)・
  慈慧大師(良源)・慈摂大師(真盛)・慈眼大師(天海)・
  弘法大師(空海)・道興大師(実慧)・法光大師(真雅)・
  本覚大師(益信)・理源大師(聖宝)・興教大師(覚鑁)・
  月輪大師(俊)・見真大師(親鸞)・慧灯大師(蓮如)・
  承陽大師(道元)・円光大師(源空)・聖応大師(良忍)


 また、法然上人の円光大師という諡号は1697年東山天皇から贈られたものですが、500回遠忌のに中御門天皇から東漸(とうぜん)大師という諡号を贈られてから50年ごとに1つずつ増え、1911年700回には明治天皇より明照(めいしょう)大師を、1961年750回には昭和天皇から和順(わじゅん)大師という諡号が(計7つ)贈られているという。
 ちなみに高僧和讃で親鸞聖人は第6祖源信僧都のことを源信大師と呼んでいますが、別名、恵心僧都、横川僧都と、一般的には僧都で呼ばれていることが多いように思います。諡号は贈られていないようで、一般的には源信大師とは呼ぶことは少ないのではないでしょうか。


 親鸞聖人は他にも中国の高僧のことを大師と呼んでいます。第3祖、曇鸞和尚を「本師曇鸞大師をば」と詠ったり、第4祖道綽禅師を「本師道綽大師は」をと云っています。第5祖の善導にいたっては「善導大師」称号の他に浮かんでこないくらいであります。私が思うに親鸞聖人は、朝廷や天皇から贈られる諡号ではないが、真宗の教えを明らかにした功績を称え、偉大な高僧という意味合いをもつ「大師」という称号を使ったのではないか、と推測しています。(中国で大師という称号がついているかは知らないのですが・・・)
 見真大師という名前が諡号という称号であること、さらには明治天皇という近年に贈られた名前であるということを、最近知ったわたくしでした。
 ちなみに、私が大学に在学していた時、川瀬和敬先生が「親鸞聖人のことを宗祖聖人といいます。宗祖聖人といいます。」と口をすっぱくして言っていたことを思い出しました。その宗祖聖人という呼び方の中には大使号とは違う意味で、深い尊敬の念が込められていることなのでしょう。


 ここまでについて書いて何ですが、現在当派において親鸞聖人・蓮如上人・法然上人には大師号は用いないとのことであります。
 「御影堂」は以前「大師堂」と言われていたそうですが、現在「御影堂」の名称しか使用していないと認識しております。(お西さんでも今は「御影堂」と名づけられていますが、文化財としての指定名称は「大師堂」となっているので「大師堂」の名称も使っているようです。)「御影堂」「大師堂」他宗派などでも使われる名称ですが、だいたい「御影堂(大師堂)」と併用して使われている場合が多いようであります。
 ただ、「見真」と書かれた額がお堂のどこかに掲げてあるのを見た人は多いのでないでしょうか。「見真大師」と書かれていないので、あまり問題視されていないと聞いたことがありますが、(私のように何も知らない人が多いかもしれませんが、)「やはり、外すべきである」と言う声も強くなってきているそうです。
 個人的見解は控えさせていただきますが、親鸞聖人が「何々大師、何々大師」と「大いなる師」という意味で尊敬の念をもって使われていたこととはかなり意味合いが違ってきているのは間違いありません。

調声の伝授

 調声(ちょうしょう)には「調声伝」というものがあるようで、なかなか教えていただく機会が少ないのが現状です。例えば、基本的なことは別にしても、堂衆(どうしゅう)の方に調声のことを教えてもらおうと聞いても「そのことは定衆(じょうしゅう)の方、もしくは藤原氏などに聞いて下さい」、といわれるくらい口伝的なもので、そのお伝えが大切に守られているものだそうです。堂衆の方が調声を伝授することはあまり宜しくないような雰囲気もあるのですが、まだ山田哲雄先生が堂衆であった頃、やはり調声のことについて詳しく教えていただいた事はあまり記憶にありませんでした。1臈を務められ、定年の後、定衆になられましたが、定衆になられた後には詳しく細かいところまで調声のことについて教えていただいたようなことを覚えています。
 おおよそ、内陣のことは定衆、外陣のことは堂衆と決められているようです。
和讃本開きについて

 内陣の出仕している人が卓の上にのっている和讃本を開くことを「和讃開き」といいます。調声人は正信偈等が終わり、念仏の調声後すぐに開きますが、その他の巡讃をあげる人は念仏が終わり一首目の和讃が始まり、三句目の中淘まできてやっと開くことになっています。
 (個人的意見ですが)単純に考えて、他の巡讃人はそこの場所がくるまで和讃本を基本的には見ることができないので他の巡讃の人も念仏の調声後に調声人と一緒に一斉に開けばいいと思うのですが・・・内陣に出仕する人は心得えとして一首目の和讃は暗記しているのが当たり前なので支障はないとのことを聞いたことがあります。

 一般的には調声人より先に所作をしたり同時に所作をしないのが基本であり、差し控えるのが好ましいとのことだそうです。総礼(そうらい)の時、調声人が先ず合掌し、それを見て皆が合掌したり、調声人が合掌を解いたのを見て皆が合掌を解くのと同じことです。
 しかしながら、三句目の中淘まで開本できないというのは、あまり理にかなった作法とは思えないと感じるのは私だけでしょうか?

御文の名前

 御文の名前は『昭和ひらがな版』の目次にでていますが、以前は御文のはじめの言葉がそのまま、御文の名前になっていたようです。例えば、一帖目の第1通では「或人いわく、当流のこころは」と始まりますので、御文の名前も「或人いわく」で、第2通目は「まず当流のをもむきは」とはじまりますので、御文の名前も「まず当流のをもむきは」という名前になっていたようです。御文のはじまりは、似たものが多いためにあまり分かりやすいものではなかったでしょうが、その方がしっかり御文を覚えたかも知れません。
 それから余分なことですが、御文一帖目大5通の名前が昭和ひらがな版』では「宗名・常流世間」とありますが、御文の始まりを読むと「宗名・当流世間」の誤りだと思われます。現在の発行されている本ではどうなんでしょうか?
ゴルフ編

 私はゴルフをしませんが、大学生の時、友達に誘われて”打ちっぱなし”に行ったことがあります。いろいろな事を教えて貰いましたが、どれもピンときません。言うことを聞けば聞く程分からなくなって頭がパニック状態になります。結局、取りあえず「習うより慣れよ」で自分で考えながら打って練習しました。勿論、空振りの嵐でした。空振りする度に人の目を気にしながら恥ずかしい思いや悔しい思いもしましたが、何度も何度も反復練習することも大切かなと思います。思い返せば、声明を初めた時もそんな風だったのかなぁと思い出されます。



 それから、何回か誘われて練習に行きましたが、ちゃんとしたインストラクターに習えば基本から教えてもらえるのでしょうが、学生の頃そんなにお金もないし、勿体無く思えた時期ですので自力で練習していました。友達に教えてもらう事もありましたが、面白いですねぇ、同じ事を教えてもらっても人によって全然言葉が違うんですねぇ。いろいろ考えて打ちましたが感覚を掴む事は出来ませんでした。しかし、この人はこういう風に感覚を掴んだんだなぁ、この人はこういうことを意識して上達したんだなぁ、という事ははっきり感じました。その友達もしっかりした指導者に習った事はなかったようですが、人に教える時はどうしても自分の掴んだ感覚や自分の意識している事しか教えることができないのかなぁと感じます。今思えば、ちゃんとした指導者に習っていればゴルフも続いたのかなぁとは思いますが。やはり何事も基礎が大事であると思います。


 打ちっぱなしの練習場に行くと、様々なフォームの打ち方をしている人がいるそうです。上手い人はそれなりに形ができているのでしょうが、そうでない人は打つ度にフォームがずれてしまうそうです。自分なりに悪いところを直そうと意識してフォームを固める努力・練習をするのでしょうが、ある人曰く、「あれでは、悪いフォームを固めているようなものだ」「変な癖をつけるためにわざわざ間違った練習をしている人が多い」と言っていました。


 ゴルフを初めて、先ず思うことは、教えてもらう人が講釈が多いということでしょう。ゴルフの「ゴ」の字も解らない人間に平気で専門用語を使ったり、基礎が全くない人間に難しい技術を延々と語ったり、うまくなろうと思う気持ちも失せてしまいます。もしも、私がゴルフを教えることになったらそうなるんでしょうが…。やはり、仲間内で楽しくやるのも良いでしょうが、少しでも早くスコアを伸ばしたい人は、プロの人に教わるのが一番でしょう。
御堂の大小と参詣の多少ということ

 御堂の大小と参詣の多少ということについて法要の格が変わるかどうか、度々議論になります。
 御堂の大小については、各々の御堂において年間行事の法要の軽重に応じて格というものが存在するものでしょうし、地域地域においてその土地の慣習がありますので、それはそれで尊重しても問題はないと考えます。ただお勤めの種類において、本山では正信偈は「句淘」が最高のお勤めであるのに対して、別院では「句切」のお勤めができる別院もあったり、一般寺院では「真四句目下」が最高のお勤めであったりするように、御堂大小に関係なくそういうことが存在するのは確かです。念仏讃の淘においても同じことが言えるでしょう。


 参詣の多少についてはよく見解が分かれるところですが、参詣の多少によって”法要の格”が変わるとことはないと基本的には考えています。ただ、満堂のような人のざわざわした状態で、力のない低い声、小さい声でお勤めしていても参詣人には声が全く聞こえないことにもなりかねませんので、声の出し方(声の高さ、声の大きさ、声の力強さ等)は参詣の多少を考慮する必要があると考えます。この声の出し方というのが、法要の格に密接に関係してくることなので、意見が分かれるところなのでしょうが、参詣の側からすれば、折角お勤めに参詣しにきたのにお勤めの声が小さく何をやっているか分からないでは残念なことでありますし、お勤めする側からするとお給仕としての側面と、自信教人信の教化という側面もあると思いますので、参詣を無視して普段通りのお勤めをすればいいと言うと、それはそれで問題があると考えるからであります。

『声明譜』には「音声高下之事」として「所の寛狭に随って声の高下をはかるべし。広き所にて低きは然るべからず。その所に相応の調子をはかって音声を調ふるを宗とするなり」とあります。声の高低もお勤めの格ということに関係してくることがらでしょうが、ここでは、あくまで音声(おんじょう)の高低の話であると解釈したいと思います。

 ただ、(きん)の間合いや、お勤めのスピードが極端に変わるということではありません。(きん)の音は軽く打っても充分遠くまで聞こえるものでしょうし、参詣の多少にはあまり影響しないものであると思います。そのお勤めの格を変えないためにも、本来の格からひどく違う(きん)を打ってしまってはお勤め全体が違うものになってしまうことにもなりかねません。単純に考えて極論をいうと「草四句目下」の(きん)が「真四句目下」の(きん)に聞こえてはおかしいということです。参詣の多少を考慮しても、あまり本来の格から逸脱した(きん)を打つことは宜しくないと考えます。
キンの音色

 普通、平キンの音色を言葉で表すと大半の人は「カーン」と言うでしょう。
 名古屋別院でキンを習った時は「カーン」ではなく「シャーン」と聞こえるように打てと教わりました。
附物について
 楽入り法要では伽陀、三重念仏、回向には附物(つけもの)がつきます。笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)という楽器を声明方の声にあわせて吹きます。そこで問題になるのが、楽が声明方の声に附くのか、声明方が楽にあわせて声をだすのかということです。楽の方が声に附けるから附物なんだという見解と、やはり楽に声を附けるのが当たり前のことだと意見が分かれます。
 私の考えは、法要自体は声明方が全体を作っていきますので楽方が声明方の声にあわせていくのが本来の姿・基本であると思います。


 しかし、例えば伽陀で考えてみると、三句目の頭で楽(附物)が入る場合、楽方は二句目の音をとって、三句目の直前で音を出すので、実質は声明方が楽に附けるかたちになります。普段声明方は上手の声明方の声を聞いて音を合わせていきますが、附物が入った時は楽に声を合わせていくと、声も揃いやすくなると思います。
 最近では、准堂衆(声明方)のなかに楽僧の資格をもっている人が増えてきています。どちらが合わせるということではなく、お互いが法要の知識を持ち、音楽的に優れている方が増えてきていますので、声と楽がピッタリ息が合う素晴らしい法要になることが多くなったように思います。


 篳篥という楽器は塩梅(えんばい)といい、伽陀で扱うように音をまるく上げたり下げたりできる楽器です。そういう意味では声明方のどんな声(音)にも附くことができる優れた楽器です。しかし、低い音が出ないので、お勤めの声が低いと1オクターブ高い音を出さなければならないという欠点もあります。
 龍笛もメル(音を下げる)カル(音を上げる)という奏法で音を操ることができますので、ほぼ声明方の声に合わせて音をだすことができます。
 それに対して笙という楽器は構造上決まった音しかでない楽器です。ピアノなどの楽器と同様に決まった音しかでませんが、逆にいえば音がはずれることはないので、通常曲を演奏する時は笙の音を聞いて、篳篥・笛がその音に合わせていくのが基本です。


 附物において楽は、声明方の二句目の全体を支配する基本となる音(宮音)が平調(ひょうじょう)という音ならば、三句目も平調という音で附けることになります。しかし、それより少し上の音(音階から外れた音)で二句目がなりたっている場合、半音上の音、勝絶(しょうぜつ)という音で、笛・篳篥は附けます。その理由は、二句目の音より三句目の音が下がるとお勤め自体にしまりがなくなりダレるということと、笙がそのような外れた音階を出すことが出来ないからです。笙はまた勝絶の音が出ないので下無(しもむ)という、さらにもう半音上の音(不協和音)で附けることになります。

 篳篥は前に述べたように、塩梅をきかせて微妙な音階を出すことができます。しかし、篳篥も楽器ですから、正しい音階にない外れた音で吹くことはかなり熟練された技術・音感が必要です。外れた音が基音になるということは、一音下がる時は、(基音から)一音下がった(外れた)音を出さなければならないし、二音上る時は、外れた音(基音)から二音上った(外れた)音を出さなければならないので大変な作業になります。
 笛の場合でも、普段正しい音階を出すように作られていますので、外れた音を出すということは、正しい音よりメッタ音(下がった音)やカッタ音(上った音)を出し続けることは構造上無理のあることであり、技術的にもかなり難しいことであります。


 伽陀の附物を、例えば平調という音で附けたとします。しかし声明の声は変化してきます。傾向としては音が下ってくることが多いと思いますが、楽方はそういう場合でも出来得る限り声明方の声に合わせて吹いて合わせているに違いありません。しかも、声明方の上手と下手で声がバラけたとしたらどうなるでしょう。
 基本的には声明方の上手の声に合わせるのでしょうが、場合によっては調和された耳心地よい音に合わせることもあるでしょう。法要全体を良いものにするには、かなりの音楽的センスのいる技術になってきます。
 以上これらのことを踏まえて考えるに、正しい音階のでる笙の音に合わせて篳篥・笛が音をつくり、その音に声明方が合わせていくのが理想であると言えるでしょう。


 伽陀の三句目を平調で附けた場合、四句目最後の音は平調で終わります。もし、楽と声明がずれて、伽陀の最後に、楽の音が気持ち悪い音に聞こえた場合、楽器の方が正しい音階を保つことができるのは明らかであり、声明方の音が外れていった(音が下がってきた)と考えるのが妥当であると考えます。声明方は伽陀や念仏等で音が下がりやすいので心してお勤めをする必要があるでしょう。
百味飲食
 百味飲食。「ひゃくみいんしょく」と書いて「ひゃくみのおんじき」と読みます。
 天台宗、魚山声明で有名な三千院では観音大祭百味供法要(かんのんたいさいひゃくみくほうよう) という行事が行われています。
 『六種回向』または『観音経』というお経に由来しているようです。仏さま(観音さま)にお供えすることは善行の功徳を積むことと解かれ、お供え(善行)をして幸福を願う。また、その感謝の念をあらわし、さらにお供えする大祭のようです。

 奈良県にある談山神社では「百味の御食(おんじき)」といわれる神饌(しんせん)を供える嘉吉祭(かきつさい)という祭式があるそうです。この祭りは大職冠藤原鎌足公の御神像に関係しているといいますから不思議な気がします。
 バリ島のオダラン(寺院祭礼)の神饌とよく似ているともあります。
 お寺では「百味飲食」、「百味の御食」として神社でも行われるのはやはり神仏習合の影響でしょうか。


 真言宗のあるお寺では「正御影供」といい、弘法大師の命日に100種類ほどのお供物する法要があるようです。
 百味とは字に書いた通り百種類の食べ物(味)をさしますが、必ずしも百種類というわけではなく五十種類の一対という供え方もあるようです。『盂蘭盆経疏』には「百と云うは大数にして、定めて一百に非ずとみえたり」とあるそうですが、やはり、百味と書かれてあれば百種類のお供えをしたくなるのが心情なのでしょうか。


 『盂蘭盆経』がでてきましたが、百味飲食で一番有名なお経が『盂蘭盆経』でないでしょうか。
 「盂蘭盆」とは、サンスクリット語の「ウランバナ」逆さに吊される苦しみを意味し、お釈迦さまの十大弟子の中の一人「神通第一」と呼ばれている尊者目連の物語です。このお話は長くなりますのでまた別の機会にと思いますが、亡き母が餓鬼道に落ち、食べることも飲むこともできず、まさに逆さに吊るされたような、飢え渇き苦しんでいたところ、お釈迦さまが「僧たちに百味の飲食などをお供えなさい」と言われ、それをしたところ母親は救われたといいます。


 日本においても「盆法要」は定着した仏教行事で、「施餓鬼」と混同されがちですがもともとは別の行事であり、また「百味飲食」も経典が別にあり、祭式として別に行われる行事のようです。

 『盂蘭盆経』の「百味飲食」は「仏さま」ではなく「僧衆」に供えるとあります。『盂蘭盆経』は中国で書かれたお経と言われていますが、僧侶にとっては都合のよい教えにもみえます。真宗のお盆は、そのようなお供えはしませんが、「お盆」自体は日本人に定着した仏教行事でもあります。

 施餓鬼は『救抜焔口陀羅尼経(くばつえんくだらにきょう)』に由来しているようですが、真宗では行いません。また、お盆だからといって精霊棚(盆棚)に位牌を安置し、茄子で作った牛や胡瓜の馬をお供えをするようなことはしません。
 『盂蘭盆経』では、僧侶にお供えするとされています。たしかに僧侶としてはありがたいことではあるかもしれませんが、いつしかご先祖にお供えすることに変化しています。


 百種類とは言わずともたくさんのお供えをするということは、何か自力的な事がらのように写り、真宗ではあまりそぐわないように思われます。しかしながら、お供えという概念は仏教とは切り離せないものであり、布施という概念も仏教には浸透しているのは否定できません。
 真宗においてお盆に『盂蘭盆経』を読むわけではありませんが、『正信偈』のお勤めを盂蘭盆会としてつとめます。天台宗や真言宗のように百味飲食のようなお供えをする法要もありません。経典が違うと言われればそれまでですが、「百味飲食」という言葉は真宗の経典である『仏説無量寿経』にも出てきます。


 「阿難、かの仏国土にもろもろの往生する者は、…(中略) もし食(じき)せんと欲(おも)う時は、七宝の鉢器(はつき)、自然(じねん)に前にあり。金・銀・瑠璃・シャコ・碼碯・珊瑚・琥珀・明月(みょうがつ)・真珠、かくのごときのもろもろの鉢、意(こころ)に随いて至る。百味の飲食(おんじき)、自然(じねん)に盈満(ようまん)す。この食(じき)ありといえども、実に食する者なし。但、色を見、香を聞(か)ぐに、意(こころ)に食をなすと以(おも)えり。自然に飽足(ほうそく)す。身心柔軟にして、味着(みじゃく)するところなし。事已れば化して去る。時至ればまた現ず。かの仏国土は清浄安穏にして微妙快楽(みみょうけらく)なり。無為泥 オン(むいないおん)の道に次(ちか)し。そのもろもろの声聞・菩薩・天・人、智慧高明(こうみょう)にして、神通洞達(じんずうとうだつ)せり。ことごとく同じく一類にして、形(かたち)異状なし。但し余方に因順するがゆえに、天・人の名あり。顔貌端正(げんみょうたんじょう)にして、世に超えて希有(けう)なり。容色微妙(ようしきみみょう)にして、天にあらず人にあらず。みな、自然虚無(じねんこむ)の身(しん)、無極(むごく)の体(たい)を受けたり。」

 食べようと思ったら、素晴らしい器が何処からともなくでてきて、百味(たくさん)の飲食が満ち溢れるように現われる、というのです。しかも、それを食べる人もいなくて、さらには、色を見て、匂いをかいで、こころで食をなして満足するというのです。
 浄土の徳といいますか、素晴らしさを表現したものでしょうが、私たちにはかえって理解しづらいことかもしれません。もともと浄土にうまれた人は欲もなく、物を欲することもないのでしょう。私たちのありさまに合わせてこのような表現になったのでしょうか。
事終わればなくなり、時がたてばまた現われる。私たちの理想といいますか、このような世界があればいってみたいと思わせるおことばです。


 天親菩薩の書かれた『無量寿経優婆提舎願生偈(浄土論・往生論)』の荘厳受用功徳成就には、
「仏法の味を愛楽(あいぎょう)し、禅三昧(ぜんさんまい)を食(じき)とす」とあります。
 お勤めのテンポが変わるところなので「願生偈」のお勤めをされたことがある人はすぐわかる箇所です。

 『仏説無量寿経』では、「事已れば」とありますが、それは「実に食する者なし」ということをあらわしています。
『浄土論』では「愛楽仏法味 禅三昧為食」と、浄土での食についてあらわしています。
物質的といいますか、肉体的な満足ではなく、精神的な満足、心が満たされるすがたを「味」「食」に例えているのでしょう。




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