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熱田新田番割三十三観音の由緒と十二番に残る伝説
    (観音堂に次のような文書があります)
 
 正保4年吉兵衞景義が新田築造

 景義は徳川の泰平の御代となり武士によって名を挙げる事は出来ないので殖産興業に力を入れんと思い 先ず新田開発を始めんと徳川義直公に申し出たる所

 國土が増すことだから是非始めて呉れと許可を得て始めた

 当時は浅い海で 船によって知多郡岸の葦州のさい土を切り船で運んだ 今の佐屋街道を堤防に築いた

 所が今の中川運河辺が切れて何度繰返して築いても切れるので屈託(くったく)していると 或る晩 枕辺で景義景義と起こす人があるので見ると観音様が立って居られ

 景義おまへは奇篤に築こうとしているがまだ時機が至らぬ もうしばらく待て やがて西の空から白鳥が飛んで来て必ず降りる さすれば必ず築けると教えられ

 毎日人足共に見張らせた 数日の後に果たして白鳥が飛んで来て降りたので力を得て築造したれば もう完全に澪(みお)が止まって成功した

 ここに於て景義は 新田築けたのは自分の力ではない観音様の御差図によって築けた 白鳥は熱田神宮なり 熱田様に御礼の心組にて熱田新田と名付け

 地割りを観音様の御礼に三十三区に地割り 一番割より三十三番割とし観音像を各割に安置して供養した

 是が番割三十三観音の由緒である 澪(みお)の止まらなかった附近を(おたらく)と俗に云う 今の十二番あたりである
 


熱田新田番割と現存する観音堂の位置   各観音は区割りの北東角に設置されたが、十二・十三番観音は南端に設置されました
 
十二・十三番観音を南に設置されているわけがあったのですね。
 
           
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