沿革 羽塚堅子
羽塚秋樂
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  羽塚堅子について
下記の文は堅子の子安子が写したものであるが、誰が書いたかは不明である。
開山  羽塚 堅子 (開基魚山寺釋堅了)

     明治二十六年五月一日 生
     昭和五十年六月三日 往生(一九七五)

本籍  名古屋市中区新栄三丁目四ノ二八(旧中区車道東町一四七番地)

父は西区花車町の淨信寺の出で、かの有名な秋樂院慈明の二男で、秋樂院の長男は慈音、慈音は淨信寺の跡をついで、次男の慈円は中区矢場町(現在栄三丁目二ノ十三)の守綱寺に入って再興の功深い人である。その守綱寺の跡をついだのが、慈円の次男啓明で一生涯雅楽にあけくれた人である。堅子は啓明の弟、慈円の四男としてお家芸とも申す雅楽を聞いたり見たりして育った。幼少の頃には当時有名な宮内省の楽師山井基萬先生が折々お出でになり横笛を伝授せられ、また辻英吉先生も常にお出でになり笙の伝授をされた。また東儀民四郎先生もおいでになり、このお方から直接に篳篥や舞を習った。民四郎先生のお子さんが和太郎先生で、長男の宣正が東大在学中長い間篳篥を習ったが、しかし学徒出征でサイパンの華と散りました。
秋樂院の弟が慈住と申し、この人が鶴重町の安淨寺へ入寺されて黒田姓になられたが、このお方の御苦労で初めて東本願寺の名古屋楽僧ができ、初代の楽僧取締となられた。第二代が淨信寺の慈音、第三代が守綱寺慈円、第四代が守綱寺啓明、第五代が魚山寺堅子で綿々として本山楽僧の取締がつづいている。
学歴は明治四十四年三月廿二日愛知県立第一中学校を卒業し、大正七年四月一日に早稲田大学校外生法律科と政治経済科を修了し、また大正八年三月丗日には私立中京法律学校をも卒業した。

大正九年には「守綱寺聲明会」を創立した。

大正十三年七月十日には真宗専門学校を卒業し、同年十一月廿日には大谷派本願寺社会事業講習会、大谷派本願寺少年法講習会を受講し、大正十四年九月十三日には少年保護事業講習会を修了した。

亦、大正十年より昭和六年迄安居に連年懸席十一回、ついで昭和十八年八月迄聴講を続けた。

得度は大正三年九月十四日余間立受式をうけ、大正十五年六月丗日学師、大正七年七月十日楽僧になり、昭和二十一年二月一日第五代本山名古屋楽僧の取締となる。

准堂衆は昭和十六年二月十五日

布教師は昭和十五年八月十日隆列稟授一級、昭和二十年度同二十一年度には総会所布教係をつとめる。
昭和十七年二月一日には真宗専門学校嘱託教授となり昭和五十年の往生するまで同朋大学教授として声明の指導に専念する。

僧綱は権大僧正 昭和四十七年七月六日、堂班は上座一等 昭和四十一年二月十三日、功賞 特殊大功章 昭和四十七年一月二十八日

学階 
魚山寺寺坊の念仏相続の寺役の傍ら数々の著書を製作され、まず昭和四年六月十日『聲明考』、昭和六年二月二十二日『引聲考』、昭和七年二月十五日『三十二相考』を発行し、これらの著書と共に『五會法事讃之研究』と題して昭和十一年七月三日擬講をいただく。次いで研究を重ね、昭和二十七年二月と昭和三十一年七月に嗣講論文提出せしが否決せれ、ついに昭和四十三年八月二十八日『讃間念仏の理念と三重秘階』と題して嗣講となる。

嗣講祝賀会 名古屋別院対面所にて 昭和四十三年十一月十二日
記念講演  名畑応順先生
舞楽    陵王

昭和四十一年二月十六日には本山声明作法審議会委員になり毎月上山し、新しい声明の製作につくす。

『聲明要義論』昭和九年二月十九日
『拔頭考』   昭和二十七年六月一日
『五會考』   昭和三十一年二月二十八日
『聲明講話』  昭和四十二年九月一日
『桜人考』   昭和五十年七月二十一日 にそれぞれ発行する。

桜人は脱稿後しばらくして病床に臥す身となり、療養中のところ昭和五十年六月三日午後二時四十分死去。『桜人考』が絶筆となりました。生涯を声明作法の教化活動、雅楽研鑽、著作活動などに終始し、とりわけ晩年になって昭和四十九年、桜人が名古屋市無形文化財に再指定され、いよいよ桜人の研究に没頭し、昨秋より老体を桜付近にはこんでは実地見聞し、かたわら文献の整理、本年二月末より執筆をはじめ一気に書き上げ完成するのを心待ちにしており、初校半ばにして衰弱がめだち始め、校正・編集ができなくなり、副住職の副雄にゆだね三校直前、遂に本書の完成を見ることなく他界しました。



名古屋芸能史(前編)』第二十 羽塚秋楽とその一統 
ー綿々として尽きざる楽道の家「羽塚氏」ー より

著者は尾崎久彌。尾崎久彌という方は江戸・近世の人物や文学・文化を研究されている、その界ではかなり有名な人のようであるが、堅子のみ師と称して書かれているのは、堅子のもとに足を運び調査したのだろうか。不思議な感じがする。
別にある羽塚秋樂のところで『平凡社発行大百科事典雅楽』と同じ意の文がみられるがそれを参考に独自の研究によって書かれたと推測できる。

 
本『名古屋芸能史』第十七、吉沢審一検校の頁で、吉沢の熱意にほだされ、彼に楽箏調弦法を授け、吉沢の古今調子の因をなしたという浄信寺の住で、雅楽の大家として聞こえた羽塚秋楽(一八一三 - 一八八七)がこと、及びその一統、綿々として尽きぬ楽道の家「羽塚氏」のことである。
 先ず、羽塚秋楽及び秋楽の住職だった浄信寺のこと。
 浄信寺は、今の中村区花車町、堀川西にある。その西側の、浄土真宗大谷派の寺である。(中略)
 とにかく今の浄信寺が、途中で成岩無量寿寺の末寺となり、浄土真宗になった。その浄土真宗浄信寺の第九世が、秋楽である。
 秋楽、羽塚氏。たゞしこの羽塚という姓は、新姓で、僧籍にあるもの、明治以前は法名だけだったにを、明治にいたり姓をつけることとなった。その時の新姓で、羽塚とつけたのは、自分たちの先祖が三河羽塚の出であるからである。
 成岩無量寿寺も山号を羽塚山という。その開基良善というのが、三河幡豆郡西条郷羽塚庄〔もと平坂(へいさか)村の内、今の西尾市内〕に草堂をしつらえ、天台宗だったのが、祖師親鸞聖人の巡?に逢い、転宗、この良善の頃、知多郡成岩(字、天王瀬古)にも一字を設け、三尾両国にわたって、教化に奔走した。無量寿寺という寺号は「今よりは三尾の両草堂を无量寿寺と名づくべし」と、祖師より授かったという。(『岩成町史』二六六頁。羽塚山無量寿寺縁起)
 その岩成無量寿寺が柳原家と婚を結び、その縁によって明治天皇お遺品数々を蔵していることは、余りにも有名。(三河、羽塚の無量寿寺、また現在すという。羽塚堅子師談。)
 さて、此の成岩無量寿寺より末寺として後の浄信寺に来った浄信寺初代は、成岩無量寿寺住職の弟だったという。(羽塚堅子師談。)
 閑話休題。秋楽がことである。秋楽は、明治以後羽塚氏。名は慈明、字は通広、秋楽は号で、初め秋楽庵、のち秋楽院と改めた。大谷派浄信寺の住。文化十年(一八一三)十二月九日を以て生れた。
 父を慈昭、兄を慈階、祖を慈聞という。天保九年(一八三八)二十六才にして法燈を嗣ぎ、浄信寺第九世となる。
 此れより先、慈明、音楽を嗜なみ、文政十二年(一八二九)十七才、大神基孚の門に入りて笛を、天保九年、二十六才(前記、法燈を嗣いだと同年)、従四位上雅楽助兼加賀守安倍季良より篳篥(ひちりき)を、弘化三年(一八四六)三十四才、正五位下筑後守豊原陽秋(きよあき)より笙を学んだ。その他しばしば京に遊んで二条家・今出川家等あらゆる斯道の家元を訪ね、又ときに楽師を聘して、これを習得するところがあった。
 なかんずく従四位下、行近江守東儀文均(ふみただ)に師事すること多年、神楽・催馬楽(さいばら)・朗詠・唐楽・高麗楽の類に至るまで、管絃・舞楽の道、小大となく究め、秘伝秘曲ことごとく伝え、技妙諦に達した。
 こヽに於い斯道に志を抱く者、秋楽の門を敲かざるはなし。大導寺主水・志水忠平・間宮六郎・生駒周行などの士を始め、東照宮附属、楽人では岡本鍵太郎・恒川弥太郎・佐藤弥平次など、その他大井数馬・取田音次郎・青木信寅・山上甚之丞・飯沼一雄・辰巳重彦・野中武雄らの、以上数百人。吉沢検校また秋楽の門を敲き、古今調子を生む因となったことは既述した。
 明治の初、時世の変革、東照宮の楽人廃せられて鶯鳴社成るや、徳川家の依嘱により旧楽人を教授した。明治十四年頌声社成るにあたり、秋楽、社長となり、門人を率いて東照宮楽事に臨んだ。まさに廃絶せんとした舞楽を挽回し得たのは、全く秋樂の功である。
 明治十五年(一八八二)三月二十六日、門人ら、秋楽のため古稀祝賀の管絃の集いを催すや、遠近来り会する者百余人。
 秋樂、もとより手工に巧みであった。笙・篳篥・笛の類は、自らこれを造りて、門人に頒かつという。明治二年(一八六九)、寺を長子慈音に譲り、以後専ら楽道を事とした。弟慈住、出でて安浄寺(中区鶴重町にあり、同じく大谷派)の住となり、黒田氏を名のった。慈住また楽をよくし、当時、本山東本願寺の楽僧というには、諸派合流による大阪方と羽塚氏一本建ての名古屋方とあったが、ついに名古屋方、即ち安浄寺慈住(黒田氏)が、東本願寺楽頭(がくとう)の初代となった。
 さて秋楽、斯道の宗と謳われて、明治二十年(一八八七)八月十四日寂した、年七十五。長子慈音、次子慈円。慈音は浄信寺を嗣いだが、慈円は出でて、守綱寺を嗣ぐ。守綱寺また羽塚氏である。慈円以前は江戸期で、姓なしと見るべきであろう。有姓僧籍、守綱寺の初めが、この慈円だったろう。(旧版、『名古屋市史』、人物編一、故堀田璋左右氏執筆の分。四六五−四六六頁)
 
(系図)

浄信寺、守綱寺、羽塚氏がこと、羽塚堅子師に聞いてまとめたところを、左の系図として示す。


本願寺楽頭
初代 黒田慈住
二代 羽塚慈音
三代 羽塚慈円
四代 羽塚啓明
五代 羽塚堅子
  付けたり啓明と『日本楽道叢書』
 啓明は、守綱寺羽塚氏、秋楽の孫の一人である。
父、慈円は、秋楽の次子、羽塚氏を浄信寺を本家とせば、分家である。なれども寺は、物凄く、いい。筋目正しき寺。槍半蔵、即ち槍で一万石の家をつくった渡辺半蔵守綱の名を受け、即ち守綱寺、三河寺部のものと同名、同宗(大谷派)、慶安二年(一六四九、守綱の孫治綱の建立、名古屋・寺部兼帯である。この渡辺氏、いうまでもなく、槍半蔵の末で、国老の一家である。三河寺部は、その領邑であった。
 江戸時代、名古屋城下にて東本願寺の有力な三ヶ寺の一。即ち聖徳寺・a光院・守綱寺の三で、院家(いんげ)と称して、白の衣を着て内陣に坐する格式を保っていたという。守綱寺、中区住吉町(現在栄三丁目)南の行き当り、若宮の北、西側。矢場町(現在栄三丁目)一ノ切九。その守綱寺住となった慈円、その跡を嗣いだ啓明に話題がある。啓明、『日本楽道叢書』半紙本、和紙、和綴、十二冊の刊行をついに敢行した。第一回、昭和三年十一月二十五日発行第十二回、昭和七年五月十日発行、五年掛りだったが、とにかく見事、難事を完遂した。所収は、十二冊で十三部。

(書目略す)(中略)

 因みに、羽塚氏一族の今の中心は、啓明令弟堅子師、五代目東本願寺楽頭。今、中区車道、私の宅の西北一丁に魚山寺とて、祖師親鸞の風韻を有する市井における草堂というに安住する。堅子師、また東京、宮内省の伶人故東儀民四郎に学んだ。東儀氏は代々篳篥、羽塚氏また累世これに学び、楽道のうち篳篥を以て主とすると。今令甥尚明師(啓明のあと)及び本家隆成の子博隆師などに対し、羽塚氏一統の後見役として、楽道特に篳篥の指導に余念ない。門人らまた多く魚山寺に集まる。

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