町名の由来 (港区誌より)
小碓村(おうすむら)大正10年(1921)年8月22日廃止 名古屋市への編入のため
かつて愛知県愛知郡にあった村。現在の名古屋市港区と熱田区の一部に該当し、庄内川と堀川に挟まれた地域である。
村域は江戸時代に伊勢湾を干拓した新田である。村名は、熱田神宮にゆかりのあった日本武尊(やまとたけるのみこと)の幼名「小碓尊」(おうすのみこと)に由来するという。
川西通(かわにしどおり)昭和35年(1960)3月20日 須成町・丸池町と共に成立
中川運河の西の通りということで名付けられた。
金船町(かねふねちょう) 昭和5年(1930)3月15日成立
中川運河の開削の際に造成された運河沿岸の土地で、東岸は「○川町」、西岸は「○町」のように「川・船」とし、「金・新・玉・福・清・富」の字をそれぞれ冠(かんむり)にして名付けられた。
寛政町(かんせいちょう) 本宮町も昭和12年までは寛政町だった
明治22年(1889)宝神・甚兵衛後・熱田前・稲永の各新田が合併してできた。寛政の名は熱田前新田が開発された寛政12年(1800)にちなんでなづけられた。
新船町(しんふねちょう) 昭和5年(1930)3月15日成立
金船町に同じ。
須成町(すなりちょう) 昭和35年(1960)3月20日 須成町・川西通と共に成立
蟹江町の須成神社・神事「御葭(みよし)ながし」の
ご神体が、昔、この辺りに流れ着いたところから名付けられたともいわれているがさだかでない。
※記録によると、ご神体は1777年6月(旧歴)、今の東海橋付近に漂着しました。当時、本宮町はまだ干拓されておらず、東海橋より南は海でした。
また、須成神社のある蟹江の人間がこの地に住みついたことによるものという説もある。
東土古町(ひがしどんごちょう)昭和36年(1961)3月28日成立
土古山新田の東側に位置するため
本宮町(ほんぐうちょう)昭和13年(1938)4月1日成立
町内にある龍神社が、熱田前新田内の一番古い元(もと)の社ということでなずけられた。 はじめは元宮町と申請したが、すでに昭和区に元宮町があったので、本宮町とした。
丸池町(まるいけちょう)昭和35年(1960)3月20日 須成町・川西通と共に成立
「熱田新田」の工区「十三番割」のうちで、この付近を流れていた用水で、幅広く、底深い池状の箇所があった。用水の水が少なくなっても、そこだけは池をなしていたところから、このことにちなんで名付けられた。
龍(りゅう)神社 −龍神ノ社−
熱田前新田干拓開始の前後にたてられた。中ノ割の氏神。「元の宮」と呼ばれていた。
熱田前新田のうち中川から東を東ノ割、中川と荒子川の間を中ノ割、荒子川から西を中ノ割と呼び、それぞれに氏神を祀った。そのなかで一番最初に建てられたのが龍神社である。
素盞嗚(すさのお)神社 −かつては天王社とよばばれていた−
干拓が竣工し検地がなされた頃に十四番割の氏神として創建された。
津島市の津島神社から勧請(かんじょう)して、江戸時代は天王社と称していた。明治の神仏分離令により、素盞嗚神社と名を改め(明治5年7月)、須佐之男命を祭神とした。
【素盞嗚神社追記】 慶安3年(1650)干拓完成時には神社が建っていたと思われる。
『愛知県神社名鑑』・・・・創建は正保四年(1647)という。天王社と称して農民の信仰あつく近在よりの参詣者多数あり。
『尾張志』(1844)・・・・・天王ノ社 當社は慶安四卯年初て勧請すといへり十四番割の氏神也
『尾張徇行記』(1822)・・・熱田社人松岡太夫書上ニ、十四番割氏神天王社内四畝十六歩、外ニ供田九畝七歩共ニ御除地、此社慶安三庚寅年勧請ナリ